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いすゞ

- 旧車 絶版車 いすず ヒルマン ミンクス 1500スーパーデラックス 昭和37年式 PH400型 (同型車次回入庫予想)予測不能!1380000円
- ■メーカー名いすず■車名ヒルマン・ミンクス■グレードスーパーデラックス■年式昭和37年式■走行距離68000 キロ■車検有効期限21年4月■ボディタイプ4ドアセダン■色薄青/白■修復歴なし■整備記録簿 ■所有者履歴 ■ミッションコラム4速■排気量1500cc ガソリン■乗車定員6人乗名■型式PH400■装備 ■昭和37年の出来事◎国立ガンセンター設立◎日本初のモノレール◎北陸トンネル完成◎室生犀星没。柳田国男没。吉川英治没。◎堀江謙一小型ヨットで太平洋横断◎三宅島雄山大噴火◎金田投手奪三振世界新記録◎日本原子力発電所◎ファイティング原田タイトル奪取◎ツイスト、ボーイッシュルック、ヘアバンド流行◎いつでも夢を◎キューポラのある街◎ウェストサイド物語◎てなもんや三度笠body,td,th {font-size: 12px;}.g12 {font-size: 12px;color: #7D7D7D;}いすゞ自動車は、 明治期からの石川島播磨重工の自動車部門 として、昭和4年に独立。 途中、数々の合併を果たしながら、 昭和24年いすゞ自動車となる。 社名の由来は、 伊勢神宮の境内を流れる「五十鈴川」から。 故に車名にも「鈴」を入れたものが存在する。 「ベレル」「ベレット」・・鈴=ベル。 国内でも最古参の自動車メーカーであり、世界的にもトラックメーカーとして名を馳せている「いすゞ」。 しかしここまでの道のりは平坦ではなく、平成5年には、乗用車部門から撤退。 平成14年には、RV部門も撤退し、乗用車からは完全撤退。 トラックのみのメーカーとして生きる道を模索した。 そのいすゞが、乗用車生産に意欲を示し、まだ未熟な技術を海外メーカーと提携し、ノックダウン生産することによって、将来の「乗用車メーカー」としての礎を築かんとしたのが、今回ご紹介する「ヒルマンミンクス」である。昭和28年、英国「ルーツ自動車」との提携で生まれた日本製ヒルマンミンクス。 その頃他メーカーも同様に、海外メーカーとの提携およびノックダウン生産によって、技術の蓄積を目論んでおり、日産は「オースチン」。 日野は「ルノー」。三菱は「ウィリス」と国産海外メーカー車が、国内を走り回るようになる。いすゞ「ヒルマンミンクス」は、のちに完全ノックダウン生産に漕ぎ付き、昭和39年6月を持って、生産を終了。 つまり「ヒルマンミンクス」は、43年前には既に絶版車となっていたのだから、現在の残存数が極めて少なくても当然と言えるだろう。 ここで「ヒルマン」についても述べておこう。創始者はウィリアム・ヒルマン。1870年にアリエル自転車を創業。これが大ヒットを生み、その余波で自動車にも携わるようになった。その後は、度重なる社名変更。資本変更が続けられ、1928年には「ハンバー社」の傘下に、1931年からは、いすゞ提携時の「ルーツ自動車」の傘下に、1967年からは「クライスラー」。そして現在は「プジョー」の傘下として、プジョー206などを生産している。なにか数奇な運命を辿っている両社。現在「ヒルマン」の商標は、プジョーが握っているが、1970年のアベンジャー以来、ヒルマンブランドは、本国でも絶版になっている。 「ミンクス」とは、おてんば娘を意味し、やはり大戦後の殺伐とした世界の中で、キビキビと走りまわる自動車をイメージした明るいネーミングだろうか、、 まだ昭和40年代までは、街を走る「ヒルマンミンクス」にお目にかかれたものだが、昭和39年に後継車の「ベレット」が登場してからは、残存数も減少の一途を辿り、昭和50年代には、もう街で走る姿を見かけなくなった。さて現車を見てみよう。 やまと自動車・総販売元の取り扱い説明書が、 良い味を出している昭和37年式のPH400型。 薄いブルーとアイボリーホワイトのツートンカラーは、あの徳大寺有恒氏も絶賛されて行ったカラーリング。 まさにオールディズいすゞである。 撮影に15キロほど試運転。 機関は45年前の車とは思えないほど好調。 もちろん古い車なので癖はあるが、現代の 路上を走らせても、左車線ならば問題ない 走りだ。 テールフィンのリアデザインは、やはり 昭和30年代の自動車の中では、垢抜けた 品のあるデザインだったろう。 当店でも、これが3台目の入庫。 その希少性がわかろうというもの。 最期に11月2日の 当店にへ取材にお越しいただいた 徳大寺巨匠の一言を・・・ 「今日はヒルマンに会うことが出来て 本当によかった」